夜のニュース番組を見ていた彼女が、突然、旅行に行くと言い出した。 渇いた夏が終わり、秋の長雨が降り始めようとする頃だった。 夏休みには遅すぎ、秋の行楽にはまだ早い。 いつもの思いつきだろう。 テレビで一足早い温泉の特集でもやっていたのかもしれない。 温泉に浸かるには、まだ随分早くないか。 まあ、ひとりで楽しんでくればいい。僕は家で留守番しているよ。 「今回は一緒に行くからね。さ、準備しなくっちゃ」 おいおい、ちょっと待ってくれよ。僕にだって予定はあるんだよ。 明日は夜から仲間と遊ぶ約束をしてるんだ。 背中を向けて無視 ちょっと甘えて抗議 |
「なーに? 行きたくないの?」 その通り。わざわざ休日に出かけなくてもいいじゃないか。 どうせ思いつきなんだろ。こだわる必要もない。 家でごろごろしていた方が楽しいよ。 「抵抗しても無駄よ。連れて行くからね」 彼女はむんずと僕の首根っこを掴まえた。 これじゃまるで、母猫にくわえられる子猫だ。 「明日は早く起きるからね。わかった?」 おいおい、いつも朝寝坊するのはキミのほうだろ。 と僕が口に出すより早く、彼女は寝る準備を始めてしまった。 結局、抵抗しても無駄。決定権は彼女にあった。 こうして、今回の旅は決まった |
彼女の膝に乗って甘えた。 わざわざ休日に出かけなくてもいいじゃないか。 どうせ思いつきなんだろ。こだわる必要もない。 一緒に家でごろごろしてた方が楽しいじゃないか。 「どうしようかなぁ……」 ほだされた彼女は悩み始めた。よしよし、この調子だ。 けれどそれも長くは続かなかった。 「やっぱり行こう!」 言うや否や彼女は元気に立ち上がった。 膝枕をされていた僕は敢えなく放り落とされた。 彼女は行き先まで勝手に決めてしまった。 僕には「いいよね?」と念を押しただけ。 決定権は彼女にあった。 こうして、今回の旅は決まった |
彼女と一緒に暮らすようになってもうじき5年。 けれど、彼女は時々僕の存在を無視するかのように振る舞う。 自由気ままに過ごし、そのくせ困ったときには甘えてくる。 まるで、大きな子供みたいだ。 それも彼女の性分なのかもしれない。 無邪気にはしゃぐのはいつも彼女の方だ。 子供っぽい彼女はよく年下に見られる。 そろそろ大人になってもいいと思う。 そんなとこもわりと好きなんだけどね |
翌朝、案の定、彼女は寝坊した。 低血圧の彼女は朝が弱いのだ。 僕が目を覚まし、散歩に出かけて戻ってきても、彼女は眠っていた。 まあ、それならそれでいい。旅行に行かなくて済むならね。 でも、どうせあとで八つ当たりされるに決まってる。 それに僕はまだ朝食を食べていない。朝から待ちぼうけで腹ぺこだ。 そろそろ起きてもらわないと僕だって困る。 頬をぺしぺし叩いて起こす 足で踏み踏みして起こす |
「んー、なによもぉ……」 ぶん! と腕が飛んできた。 咄嗟に避けたけど、びっくりして目が丸くなっちゃった。 寝ぼけた彼女は凶暴極まりないのだ。 それでも起きない彼女に、なおも攻撃をする。 ぺしぺし。ぴしぱし。ぺしぺしぺし。 ビシッ! 「痛っ!! ななななになになに!?」 あれ、ちょっと力が入りすぎたかな。 まあ、朝寝坊の彼女にはこのぐらいが丁度良いだろう。 ようやく彼女は目を覚ました |
ふみふみ。ふみふみ。 おーい、そろそろ起きてくれよ。 僕はお腹が空いたよ。キミだって朝食は食べたいだろ。 「……むにゃむにゃ」 彼女はすっかり寝入っている。 そもそもこんな優しい起こし方で起きるような人じゃないんだ。 しょうがない。愛の鉄拳といきましょうか。 ビシッ! 「痛っ!! ななななになになに!?」 ようやく彼女は目を覚ました |
彼女が起きたときには、すでに陽は高くなっていた。 さらに彼女は準備に手間取い、昼を過ぎても出発はできなかった。 だから昨日のうちに準備を済ませて、目覚ましをかけろって言ったのに。 彼女はそういう縛られた生活が嫌いらしい。気持ちはわかるけどね。 「あー、もぉ、どうしてもっと早く起こしてくれないのよぉ」 彼女は相変わらず身勝手にボヤいている。 起こしたよ。何度もね。 でもキミが起きなかったんだ。僕のせいじゃない。 僕はもう顔も洗ったし、身支度も済ませたんだからね。 僕と彼女は、ようやく出発した |
彼女の運転で、僕らは車を走らせた。 運転の好きな彼女はすっかり機嫌がいい。 放っておくと、何時間でもひとりで走っている。 僕はすることがなくて、助手席でぼーっとしていた。 こんな窮屈な場所に押し込められてン時間。 しかも変な音楽が流れている。 なんて歌っているのかさえ僕にはわからない。 車酔いだってしてしまう。 いっそ後部座席で体を伸ばせればマシかもしれないが。 雲でも数えてる 彼女を見る |
雲がひとーつ。 雲がふたーつ。 雲がみーっつ。 「上ばかり見てると酔っちゃうよ」 そう言われても他に楽しみがない。 僕に歌でも歌ってろと言うんだろうか。 歌ったら歌ったで、うるさいなぁとボヤくに決まってる。 彼女は僕の歌の良さを理解してくれないんだ。 僕はフロントガラス越しに空を見上げた。 青い空は、夏の色を残して輝いていた |
彼女はまるっきりのドライブ気分だ。 確かに今回の旅は、旅行ってほどでもないかもしれない。 たった一泊だし、所詮は思いつきの旅でしかないのだから。 やがて彼女は、BGMに合わせて呑気に歌い出した。 正直言うと、彼女は歌が下手だ。 だが止めろと言っても無駄だ。 浮かれている彼女には僕の言葉は届かないだろう。 そして僕には、他に楽しみもない。 助手席に乗せられて、彼女か空を眺めるぐらいだ。 僕は黙って彼女の鼻歌を聴いていた |
車酔いをして眠っていると、停車する気配で目が覚めた。 すでに何時間か走っている。サービスエリアに入ったようだ。 「ちょっと休憩しよ。外に出る?」 もちろん、そうさせてもらおう。これで少しは気も楽になる。 見知らぬ場所の空気は落ち着かない。 けれど長時間閉じこめられた後には、開放感があって心地いい。 目の前には山だ。海の音が聞こえる。風には潮も混じってる。 ちょっとした探検心も湧いてくる。 「ちょっとトイレ行ってくるね。あんまり遠くに行かないでね」 彼女はそう言ったが、眠気覚ましに一回りすることにした。 さて、どこに行ってみようか。 海の方へ行ってみる 山の方へ行ってみる |
今年は、これが4回目の海だ。 いつもは1回行けば十分だが、今年の彼女は海好きだった。 そのうち泳いだのは1回だけだったけど。 まあ、僕は泳げないから、どうせ海岸で見てるだけだ。 さすがにこの時期、海水浴をしている人間はいない。 その方がいい。 僕もゆっくりと波の音を満喫できる。 岩場で波が砕けて、風がいっぱいに潮を含んでいる。 しょっぱくて目が痒くなりそうだ。 そろそろ戻ろうか |
裏手にすぐ山が広がっていた。 さして大きな山ではないが、静かでいい場所だ。 日陰が多くて涼しいし、土の道は踏み心地がいい。 蝉が五月蠅いのは欠点だが、夏の風物詩だと思えば情緒もある。 昔みたいに、一匹掴まえて彼女に見せてやろうか。 彼女は以前と同じように、悲鳴をあげて喜んでくれるに違いない。 でもあんなに高いところじゃ、手が届かないや。残念。 ひとしきり歩くと、眠気も車酔いも無くなった。 僕は家の中が好きだが、たまには自然の中もいいかもしれない。 これが森林浴の効果って奴だろうか。 そろそろ戻ろうか |
あれ、戻り道が分からない。 こっちかな? それとも、あっちかな? 参ったな。迷子になってしまったみたいだ。 彼女はもうトイレから帰ってきてるよな。 怒ってるかな。怒ってるだろうな。 怒って先に行っちゃってたりして……。 それはまずいぞ。 どうしようかな。ここはどこだ? うーん、困ったな。 こういう時、いっそ犬なら帰巣本能とか自慢の鼻で戻れるんだろうなぁ。 あいつらはいいよなぁ。まあ、僕は犬が嫌いなんだけどね。 あ、ここは通った気がするぞ。 あっちか? いや、こっちかな? あれれれ? わかった、こっちだ! やった、彼女を見つけた! |
彼女は地べたに座り込んで待っててくれた。僕は慌てて走った。 「どこいってたのよ!」 いきなり怒鳴られた。思わず5m手前で止まってしまった。 「まったくもぉ! 心配したんだから!」 いきなり彼女は泣きだした。これは困ったぞ。 ごめん、迷子になっちゃって。 だって、いきなり道がわからなくなるとは思いもしなかったんだ。 僕は大人しく助手席に乗り込んだ。悪いことしちゃったな。 やっぱり見知らぬ町では大人しくしていた方が良さそうだ。 「あーあ、これじゃあ、明るいうちに着くのは無理かなぁ」 彼女のボヤき通り、到着する頃には夜になっていた |
到着したのは、彼女の祖父母と両親の住むマンションだった。 旅行とは言ったが、結局は里帰りだ。 両親らと会うのは、これで幾度目かになる。 遅い夕食を一緒に食べながらまったり過ごした。 僕はこういうのんびりした時間が大好きだ。 用意された御馳走はとても美味しかった。 「お酒飲む?」 彼女が晩酌を勧めた。地元のお酒らしい。 まろやかな香りが鼻をくすぐる。唇には日本酒特有の辛みを感じた。 残り香を舌で拭うと、ほんのり甘い。 なるほど、塩味の強いサカナが欲しくなるね。 やがて、彼女と祖父母が話し始めた |
「明日、アカギ様を見てこようと思って」 「おやまぁ……今更行ってもどうかと思うけどねぇ」 「うん、でも見てみたくなったの」 「やめておいた方がいいんじゃないのかい。いいことなんてないよ」 「そうかな……」 「それより、どうだい。そろそろ一緒に暮らさないかい?」 「……」 「今の暮らしも悪くないが、お前がいてくれるともっといいと思うんだよ」 「ごめんね」 彼女は浮かない顔をしている。助け船を出そうか。 お酒のお代わりを催促する 皿をテーブルから落とす |
「はいはい、まだ飲むのね。ごめんね、ほったらかしで」 彼女はフローリングの床をパタパタと駆けだした。 ほどなく彼女は、熱燗を手に戻ってきた。 どれどれ……熱っ! 「あ、ごめんね。ちょっと熱かった?」 言い忘れていたが、僕は猫舌だった。 燗は人肌と言うが、僕はぬるいのが好きだ。 少し冷ましてから舐めるように喉に流し込む。 体がぽかぽかしていい気持ちだ。 彼女と祖父母の話は続いていたようだ。 けれど僕は、飲み過ぎて寝入ってしまった。 そのまま、僕は朝まで眠った |
ガシャーン! カラカラカラ! 「きゃっ!」 「あらあら、まぁまぁまぁ、大変だわ」 ひっくり返った皿は、挽肉とピーマンをぶちまけた。 ちなみに僕はピーマンは嫌いだ。挽肉も好きじゃない。 彼女の祖母は慌てて雑巾で掃除を始めた。 見事、さっきの話は打ち切りになった。 けど、フローリングに真新しい引っ掻き傷ができてしまった。 ちょっと力が入り過ぎちゃったかな。 明日早いからもう寝るねと言い、彼女は席を立った。 その夜、彼女はなかなか眠らなかった |
翌朝、彼女はまた車を走らせた。僕も助手席に乗せられた。 わりと大きな道を2時間ばかり走ったろうか。 目の前の谷がどんどん大きく、深くなった。 やがて、その向こうに、コンクリートの大きな壁が現れた。 ダムだ。 僕と彼女は、ダムの上に立った |
目の前には赤々とした荒れ地が広がっていた。 夏の日照りで、ダムの水は底をつきかけている。 彼女は、すっと指を差した。 「アカギ様」 真っ直ぐに示した先には立ち枯れた木があった。 赤土に幹まで埋もれ、枝葉は落ちていた。 「小学校」 「竹中さんち」 「川を渡って、段々畑をぐるっと回って……」 すーっと指先が糸を引く。 右の水面で指を止め、彼女はひとつ息を飲んだ。 「あそこが私の家……だったところ」 そこは粘土質の土砂で埋もれ、ただの平らな土地になっていた。 不意に彼女は涙を流した。 そっとキスをする 抱き締める |
彼女の頬にそっとキスをした。僕にできるのはそれぐらいだ。 「辛いわけじゃないのよ。寂しいわけでもないの。 ただちょっと、ときどき哀しくなるの」 彼女は身を固めて泣いた。 その哀しみの本質を、僕に理解しろというのはたぶん無理だった。 僕にはただ、哀しむ彼女を受け止めるぐらいしかできない。 彼女はぽつりと語りだした |
「いたたたた。ちょっと痛いよ」 失敗。ちょっと強く抱きつきすぎたみたいだ。 今度は、そーっと頬を合わせた。 「くすぐったいよ」 彼女は笑った。けど、その笑顔も長くは保たなかった。 彼女はぽつりと語りだした |
「進学でここを離れてすぐにダムができたの。 ときどき思い出すたびに、わたしの帰る場所が無くなった気がするの。 わたしは一体誰なんだろう。どこにいるべき人間なんだろう……って」 「毎日がどこか虚ろだった。 友達と遊んだり、就職してからは仕事に打ち込んだ。 でも大事ななにかは見つからなかった。 あなたと会ったのもそんな頃だった」 「最初は一人が寂しかっただけかもしれない。 でも今は違う。一緒にいられるのが嬉しい。 あなたが居ないと、わたしはだめかもしれない」 「あなたに、わたしの古里を見せたかったの」 |
帰り道、彼女はまたひとりで運転をした。 僕は、彼女がダムで見せた泣き顔が心配だった。 「疲れたでしょ。寝てていいよ」 慰めたいのに寝ろと言われてしまう。結局、僕は無力だ。 でも、彼女の顔はどこか晴れやかだ。 「今日の夕ご飯どうしようか。御馳走にする?」 なるほど、彼女のことだから、自分で解決しちゃったんだろう。 それなら僕は食べたいものがある。 「カニかな?」 それはあんまり好きじゃないんだな。 「タイの尾頭付き?」 そんなものはいらない。 「それとも……猫まっしぐら?」 それじゃいつもと一緒だ。 「嘘。まぐろのお刺身にしようね」 それがいい。やっぱりキミはわかってくれてるよ。 僕も飼い猫冥利に尽きるってもんだ。 ゲーム終了 |
帰り道、彼女はまたひとりで運転をした。 昨夜、彼女は遅くまで祖父母と話していたようだった。 早々に酔っぱらった僕は、なにを話していたのか憶えていない。 結局、この旅は本当に彼女の思いつきだったのか。 「疲れたでしょ。寝てていいよ」 やれやれ、そうさせてもらうよ。なんだか気疲れしたよ。 だいいち、僕は車も旅行も苦手なんだ。 「今日の夕ご飯どうしようか」 そうだね、いつもの奴でいいよ。贅沢は言わない。 車酔いで食欲も半減だ。 「少しいいもの食べようか。カニなんてどう?」 それはあんまり好きじゃないんだな。 そんなものより、ほら、もっと僕が好きなものがあるだろ? 「やめ。まぐろのお刺身にしようか」 それそれ、それだよ。やっぱりキミはわかってくれてるよ。 ところで…… |
そこのキミ。そう、これを読んでいるキミだよ。 僕が何者か、キミにはわかったかい? 彼女の恋人? そうだね、そうとも言える。 彼女の夫? うぅーん、ちょっと違うが、そう言われて悪い気はしない。 彼女の同居人? まあ正解と言えば正解だ。しかし、そんな他人行儀ではないね。 彼女の家族? それが一番近いかな。でもそれじゃあ正解とは言えない。 わからなかったキミは、もう一度始めからやってみるといい。 僕と彼女の関係がわかれば、きっとキミは羨ましがるよ。 もう一度始めから ゲームを終了する |