ユルク咲く頃あの谷は

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 私はとても小さな町で生まれ育った。
 牧場と農地と森に囲まれた山間の狭い盆地は、風吹きミュールが運んでくる
季節の風で色を変える。
 森のブラッシュみたいに柔らかい笑顔の中に、リューゼン沼のように澱ん
だ瞳を持った人々。この貧しい町での生活も、安穏とした顔で暮らす人々も、
何も知らない、何も感じない子供の頃は大好きだった
 でも、たった一晩で大嫌いになれた。

 笛吹きミュールの丘は、の外れにある山に挟まれた小さな丘。季節が巡る
たびに狭い谷から飛び出してくる風に乗って、ピューイ、ピューイと笛の音が
聞こえてくる。
 子供が集まると、丘への一本道を我先にと駆け出して、今日は誰が一番だと
か、お前はいつも遅いとか、このままユルクまで競走だ、今日は何が見える、
今日は何をしようって、楽しく遊んでた。
 この丘も、友達も、楽しく過ごす時間も、無邪気な頃の私は大好きだった。
 輝いてた時間は、今はもう取り戻すことができない。

 ブラッシュの森は、の西側に迫る高い森。背いたかのっぽの木がお互い触
れ合うようにひしめき合っていて、昼間でも薄暗く、湿った空気が滞っている。
 ブラッシュというのは、この森を少し入った小さな広場にびっしりと生えて
いる、ワタのようなフワフワした坊主頭を持った草のこと。タンポポのワタ帽
子みたいだけど、それよりもっとフワフワして、触れるとなぜか暖かく感じる。
 森の中に開けた小さな広場も、ワタ帽子のフワフワした感触も、寝っころが
って見つめる雲の流れも好きだった。
 森の奥にはリューゼン沼へと続く細い道が伸びているけど、恐ろしい言い伝
えがあって、そこから先は子供は入ってはいけないことになっていた。

 リューゼン沼は森の中にシンと佇んでいる。おババが子供の頃から、おババ
のおババが子供の頃からずっとそこにあって、じっと澱んでいる。
 ここは危険な場所だって何度大人に叱られ、注意されても、好奇心一杯の子
供たちは、大人の目を盗んでは足を踏み入れていた。いたずらっ子のノトたち
と一緒に、私もよく遊びに来ていた。
 沼への道はピンと背筋を伸ばした膝丈の草で覆われ、沼の縁には植物が枝垂
れかかり、水面にも水中にも水草がひしめいている。木々の隙間から鳥の声が
降り、糸引くような日光が虫の声を照らす。澄んだ水は蒼く澱み、神秘的なほ
ど綺麗な魅力と、一度沈んだら抜け出せないような恐さがあった。

 リューゼン沼には、沼と同じ色の瞳を持った恐ろしい怪物が棲んでいて、近
寄った人達を沼に引きずり込んでしまうという。私がこの沼で1人で遊んだと
知って、私にはあまり怒らないトム爺にひどく怒られたことがあった。
 でも子供の頃はその恐さに、なんだかドキドキするほど興味もあった。今は
もっと恐いものを知っているし、別の意味で怪物に会ってみたいとも思う。

 ノトは町一番のいたずらっ子。毎日のように悪いことをしては叱られ、追い
かけられ、それでも悪びれず、おばさんたちは手を焼いていた。でも、トム爺
とだけは相性が悪くて、怒られては納屋のネズミみたいに逃げていた。

「よぉ」
ノトはいつも元気がよくて子供っぽい。この歳になってもまだ、子供みたいに
鼻をこするのが直らないし、この間の抜けな声のかけ方も変わらない。
「なんだよ、シケたツラしやがって。そうだ、これからに行ってみないか」
イヤよ。そんな気分じゃないわ。
「な、なんだよ、せっかく人が誘ってやってんのに」
アンタも少しは大人になれば。そうすればわかるんじゃない?
「ちぇっ、お前、そればっかりだな……」
ノトの前では、私はいつもつっけんどんになる。歳が近くてよく一緒に遊んで
いたけど、私をからかったり、イヤなことをワザとしてくるのが嫌いだった。
親友のミラと親しくなければ、話しかける仲にもならなかったかもしれない。

 ユルクはの外れにぽつんと立っている強くて優しい樹。どんなに寒い冬も
緑を落とすことがなく、どんな強風にも枝を折ることがない。それは樹に宿っ
ているユルクという名の精霊のおかげで、ユルクは町のみんなに慕われている。

ユルク、なんだか久しぶりな気がするね。今日も元気そうでよかった。
これで何度目かな、こうして話しかけるのは。
ユルクはみんなの人気者だけど、聞き役ばかりで退屈したりしなかった?
おまけに私は世間話ばかりで、他の子みたいに恋の話とかはしなかったしね。
そうね、他の人みたいに本気でユルクと話したのは、1度だけだったもの。
でもね、私もユルクが大好きだったよ。
こうしてユルクを抱きしめてると、ユルクの鼓動が聞えてくるもの。ユルクと
一緒にいると、ささくれ立った心や、涙に沈んだ心が癒されるの。だからきっ
と、みんなもユルクのことが好きなんだね。

 トム爺は働き者で頑固者。壁の見慣れない古い制服は、トム爺が若かった頃
にいた街の自警団のもので、トム爺の唯一の自慢。いたずらっ子のノトはトム
爺を怖がるけど、私は好きだった。

ねぇトム爺、あの話を聞かせてよ。
「おお、そうかそうか、聞きたいか。よし、じゃあ特別に話してやろう……」
トム爺の”特別”は口癖みたいなもの。若かりし頃の武勇伝を話すトム爺は生
き生きとして、いつもの頑固なトム爺からは想像もつかない。
「それからワシは………………ん、寝たのか?」
ううん、起きてるわ。ちょっと目を閉じてただけ。
「そうか……じゃが、ワシが言うのもなんじゃが、こんな老いぼれの昔話を聞
 くよりは、ミラやノトと遊んだ方がいいんじゃないかの」
ううん、いいの。今はトム爺の話を聞きに来たんだから。それにノトは嫌いよ。
私を侮辱するもの。
「侮辱かの……いやしかし、それはな……」
ノトの話はいいの。それで、盗賊のキラを見つけたトム爺はどうしたの?
「おお、そうじゃそうじゃ。で、奴がこれまた驚くばかりの……」

御機嫌になったトム爺が淹れてくれる”特別”なお茶と、遠くの街を想像しな
がら聞くその武勇伝が、私は大好きだった。

 セイネルの泉は、に向かって切り込んだ湿原にある。白い砂からこんこん
と湧き出る冷たく澄んだ水は町を潤し、清らかな深い蒼は水の精霊の色だと言
い伝えられている。
 苔生した泉の周りには、高い空から陽差しが降りそそぎ、霧のような水しぶ
きの中に小さな花が点々と咲いている。夏でもひんやりしたこの場所を、親友
ミラは気に入っていて、夏になるとよく一緒に散歩をした。
 セイネルの泉は枯れることなく、いつまでも澄んだ蒼い水を湧き出し続ける。
大好きなおババとミラは、私の瞳をこの泉の色のようだと褒めてくれた。

 おババは町で一番の年寄り。いつもロッキングチェアで揺れながら、見えな
い目を細くしてゆったりと過ごしている。私は小さい頃からおババが大好きで、
おババの前ではいつも素直になれた。

「ああ、よく来たね」
おババ、今日は元気そうだね。手にいつもより張りがあるよ。
「ほほほっ、そうかい、ありがとね。そうね、今日は調子がいいみたいだね」
そう、よかったね。おババが元気だと私も嬉しいよ。
「おババはお前が大好きだよ。おババの目が死んだ時も、お前のそのセイネル
 みたいに綺麗な瞳が見れなくなったのが哀しかったよ」
ありがとう。私もおババのこと大好きだよ。
「でもね、ここのところよく思うんだよ。ひょっとしたら、お前のその瞳がい
 つかリューゼン沼のように澱んでしまうかもしれないって……。そう思うと
 おババはとても哀しいよ」
心配しないでおババ。私はいつでも私のままだから。
「そうかい……おババは少し心配性なのかね……」
ふふふ、そうなのかもね。

 弟のルークはまだ小さくて泣き虫で、いつも私を困らせる。私はルークの涙
には弱くて、そんなルークを放っておくことができなかった。家族の中では一
番好きだったし、もちろんノトなんかよりはずっと好きだったから。

「ヒック……お姉ちゃぁ〜ん……」
ルーク、また泣いてるの。
「お姉ちゃん……ごめんなさい……」
どうしたのよ、今度は何かあったの?
「お姉ちゃんの、大事にしてた、カップを……」
ああ……いいのよ別に。あれはもう捨てようと思ってたから。ほら、泣かない
で。お姉ちゃん怒ってないでしょ。
「うん……でも……」
ルークもこれからは、もう少し強くならなくちゃいけないわね。いつまでも子
供のままじゃいられないんだから。
「ボク、大人になんてなりたくない……だって……」
ルーク、お願いだからそういうことは言わないで。ルークがいつまでも泣いて
いると、お姉ちゃんも悲しくなるから。それに、この前お姉ちゃんと約束した
でしょ、これからは泣かないって。みんなに迷惑かけないって。
「うん……」
さあ、もう泣きやんで、ね。

 貧乏なこの町の中で、ジェシカさんは一番のお金持ちで、その家はユルク
てっぺんに手が届くくらいの高さがある。
 ジェシカさんちのおじいさんは、トム爺大きな街に行く前からの知り合い
らしい。幼なじみなんだって教えてくれた。でも、仲は悪いみたい。トム爺は
ジェシカのおじいさんのこととなると、すぐムキになるから。
 通りに面した高い屋根を見上げるたびに、羨ましく思っていた。もっとお金
持ちだったら、苦労なんてしないで暮らしていけるのにって。あの家が私たち
のお金を全部吸い取ってるんだって大人たちが噂していたけど、おババは困っ
た顔で、”陰口”という恥かしい言葉を教えてくれた。

 ミラは大人しくて優しい私の大切な親友。どんな時にも私の言葉を信じて、
笑いかけてくれた。ジェシカさんの家で働くようになって、あまり会えなくな
ったけど、いつまでも変わらない友情があると思う。

ミラ、久しぶりね。
「うん、久しぶり。元気……なんて言うの、変だよね……」
ううん、そんなことないよ。私は元気。それより、抜け出してきていいの?
「うん、ちゃんと許しはもらってきたから。えへへ……」
なにも走ってくることなかったのに。ミラは足が遅いんだから。
「あんまり時間がないし……それにね、少しでも早く会いたかったの」
ありがとう。本当はゆっくり話せるといいんだけどね。
「仕事も慣れたし、みんなもよくしてくれるし、なんにも心配ないからね」
うん。ミラが幸せそうで安心した。
ノトが何か話したがってたみたいだけど、もう会った?」
ん……まあね。
「弟さんは? また泣いてるのかな……」
大丈夫、ルークだっていつまでも子供のままじゃないもの。
「そっか……今は時間なくてあんまり話せないけど、お昼にはちょっと時間も
 らえることになったから、その時にまたね」
うん、ありがとう。

 ノトとはよく一緒にいたけど、私をからかうノトのことをずっと嫌っていた。

「なぁ、ちょっと話があるんだけど」
何?
「あのさ……その……えと……」
ハッキリしなさいよ。私、アンタのそういうところも嫌いなの。
「その……ゴメンッ。ずっと、謝ろうと思ってたんだ。あの時、オレだって本
 当は、お前のせいじゃないってわかってたんだ。ホントにゴメン」
ノトが私に頭を下げるのは、これが初めてのことかもしれない。
「それから、色々とからかったりしたことも。本当はオレ、お前のその目、キ
 レイだなって思ってた。でも、正直に言うのがシャクだったから……」
……もういいよ。それに、あれはノトが悪いんじゃないわ。リューゼンの怪物
が私を呪っただけだもの。
「今更だけど、オレ、なんでもやるから。オレにできることがあれば……」
ありがとう。そうね……私の変わりにお墓参りに行ってあげて。それからミラ
とも仲良くしてあげて。今の私に頼めるのは、それくらいしかないわ。

 おババの言ったことは本当だったね。そう、いつか許し合える日もくるって
こと。ノトにはずっとわだかまりを持ってたけど、本当は嫌いじゃなかった。
ノトはずっと、私の数少ない友達の一人だったんだから。

トム爺、トム爺が前に住んでいた街には、どうやって行くの?
「ふむ。この谷を下りて、大きな川をずっと下ったところにあるんじゃ」
そう。やっぱり何日もかかるんだよね。ねぇ、どんなところなのかな。
「そうじゃな……とても大きくて、とても狭い街じゃったな……」
トム爺、前もそう言ったよね。でも私にはよく分からないわ。
「ふむ……そうじゃな、大きさはこの谷ぐらいあるかもしれんな」
ほんと? たった1つの街が?
「おお、本当だとも。信じられないくらい大勢の人が住んでいて、ユルクの樹
 くらいある家がたくさん建っているんじゃ」
じゃあ、ジェシカさんちみたいな大きな家がたくさんあるのね。ふーん、すご
いんだ。ちょっと想像できないな。
「頑張れば欲しいものが何でも手に入る、とても素晴らしい街じゃよ」
でも、トム爺は帰ってきたんだよね。
「うむ……だんだん、窮屈で仕方なくなっての」
それが、トム爺が狭いって言ったことなんだ。
「そういうことじゃな。じゃが、とてもいい街じゃよ。悪い人もいたが、いい
 人もたくさんいた。ワシもいろんな人にお世話になったもんじゃ」
そっか。いい人がたくさんいるのか、ふぅん……私もね、一度は行ってみたい
なって思ったことがあるのよ。
「そうかそうか……」
うん、ほんとに、本当なんだよ。

 大好きなおババは、どんな時も私のことを心配してくれる。おババの膝に頭
を寄せて、そっと不安を押し殺したのは一度や二度ではなかった。

「どうしたんだい。なんだか元気がないね。やっぱり不安かい?」
……うん、ほんの少しだけね。
「すまないね。私がもっと若ければ、お前にこんな思いはさせなかったのに」
ううん、おババのせいじゃないわ。
「そうかい……昔、おババが言ったことを憶えてるかい。その瞳がきっとお前
 に幸運をもたらしてくれると、セイネルがお前を守ってくれるって」
うん。私の瞳は怪物の色じゃない、水の精霊の色だって言ってくれたよね。
「ありがとうね、憶えててくれたのかい。でも、お前のその瞳が、お前に不幸
 を招いてしまった。おババは嘘をついてしまったよ。許しておくれ」
気にしないで。おババのせいじゃないわ。
「そうかい……お前の母親も恨まないでやっておくれ。あの子も辛いんだよ」
うん、わかってる。もう恨んでないわ。
「お前は本当に強くて優しい子だね。リューゼンの呪いにも負けなかった」
うん……でも本当はあの時、少しだけ泣いたのよ、自分の部屋で。でももう大
丈夫。今の私はそんな弱虫じゃないわ。
「そうかい……おババにできるのは、お前にセイネルの加護があるのを祈るこ
 とぐらいなんだね……」
ありがとう、おババ。私にはそれで十分よ。

 一度だけ死んでしまいたいと思ったことがある。
 リューゼンの呪いがかけられたあの日、人々の視線と言葉に耐えられなくな
って、ユルクに会いに行った。それから家に帰って、毛布にくるまって一人、
涙が枯れるまで泣いていた。生まれたばかりのも、ピリピリした空気に泣き
続けていたのを憶えてる。

 今はもう、あの時のような子供じゃない。人を謗るような人たちのために、
安易に死にたいなんて絶対に思ってやらない。何があっても絶対に生き抜いて
やると誓った。
 私は少し、強くなった。

 ルークの涙は、いつも私の胸を締めつける。泣きたいのを堪え続けてきた自
分の、本当の姿を見せられているみたいだった。

「お姉ちゃん……」
ルークはきっと大丈夫だよね……。だからルーク、ほら、泣かないで。
「……ほんと言うとね、ボク、さみしい……」
ルークにはお母さんがいるじゃない。隣のおばさんだって、友達だってたくさ
んいるでしょ?
「うん……でもお姉ちゃんと一緒がいいもん。お姉ちゃんはさみしくないの?」
ん……そうね、お姉ちゃんも寂しいよ。
「じゃあ、どうしてお姉ちゃんは泣かないの?」
……そうね、泣き方を忘れちゃったのかも。
「泣き方を忘れればさみしくなくなるの?」
そんなことはないわ。でもほら、お姉ちゃん、そういうのはユルクに話してき
ちゃったから。そうだ、ルークも寂しくなったら、ユルクに相談してみるとい
いわ。
「ユルクは、僕の話も聞いてくれるかな?」
もちろん。だって、ユルクは強くて優しいもの。ルークの話だってきっと聞い
てくれる。だから泣かないで。ルークが泣くと、お姉ちゃんも困っちゃうから。
「うん……」

 リューゼンの怪物に魅入られた子供は、怪物の呪いを受ける。呪われた子供
の瞳は蒼く光って、不幸を招く。そんな忘れかけられた伝説が私を縛りつけた。

 あの日、みんなと一緒にリューゼン沼に行った。みんなとはぐれた私と彼は、
二人だけで遊び、花を取るのに夢中になって気がつくと、彼はいなくなってい
た。恐くなって町へ飛んで帰ったら、夕刻、リューゼンの蒼い淵から冷たくな
った子供の体が引き上げられた。
 彼は大切な友達だった。ノトは私を罵って、大人たちは私の蒼い瞳を指差し、
家族さえよそよそしくなって、私は一人になった。この時から、私の瞳の色は
清く美しいセイネルの泉ではなく、不気味に深い沼の色に変わった。
 いつかおババが教えてくれた”濡れ衣”という言葉の本当の意味をじっとか
み締めながら、自分の瞳が呪われていくのを感じた。

 母はとても涙もろい。両親とはまったく違う瞳で生まれた私はきっと、そう
いうものを受け継がなかったんだと思う。

「ごめんね……あなたにばかり辛い思いをさせて……」
別に、気にしてないよ。
「そ、そう……でも、でもね……」
いいよ、もう泣かないで、お母さん。お母さんは悪くない。お父さんだって悪
くない。当然のことだもの。しょうがないことなんだもの。
「でも、でもね、お母さんはあなたのことが心配で……」
私は大丈夫。そんなに弱虫じゃないわ。それより、ルークのことよろしくね。
お母さんもルークも、いつまでも泣いてばかりじゃいられないでしょ。
「ごめんね、本当にごめんね……」

 私の瞳が呪われたあの頃から、なんとなくお母さんは苦手になって、今では
うっとうしく感じることもある。でも、ここまで育ててくれたんだから、感謝
はしてる。ルークにも優しいし、決して悪い親だということはないと思う。
 ただ、ジェシカさんちとは違って貧乏だっただけ。こんな貧しい町に暮らし
ているんだもの。それはしょうがないんだって諦めるしかない。まだお母さん
を好きでいられるほど大人じゃないけど、私はお姉さんなんだもの。

 たった一度だけ、ユルクに泣きついたことがある。リューゼンの呪いがかけ
られたあの日のこと、真っ先にユルクのところにやってきて、どうして私なん
だろう、どうすればいいんだろうって、ユルクに助けを求めた。
 ユルクはただ、優しく風と戯れて、私の心を包み込んでくれた。

ユルク、もうお願いはしないよ。だって、これは私が立ち向かうことだもの。
本当はね、私だって泣いてしまいたい。そうすれば少しは気持ちが晴れるかも
しれないから。でも、それは私の大切な人を悲しませるし、私の嫌いな人達を
喜ばせるだけって気がするの。
ユルク、私は大丈夫だよ。色々なことが私を強くしてくれた。今度のことにだ
って、私は負けたりなんかしない。きっと強く生きていく。
あ……ほら、お昼の鐘が私を呼んでる。もう行かなくちゃ。
ユルク、さよならユルク。こうして話すのはこれで最後だよね。
一度でいいから、あなたに会ってみたかったな。
あなたの優しさはきっと忘れない。みんなをよろしくね。
さよなら。

 ジェシカさんの大きな家を見上げると、いつも羨ましく感じた。今は、羨ま
しさを通り越して、恨みさえ感じている。お金さえあれば、うちが貧乏でなか
ったら、こんな目には合わなかったのにって。おババに言わせればそれは
”逆恨み”なのだろうけど。
 でも、その気持ちが今の私を支えているのかもしれない。そんなもののため
に、泣いてなんかやらない。泣いてなんかいられない。私はそんなものに負け
たりしない。強く生きていくんだと誓ったから。いつかきっと、自分の手で自
分自身を掴んでみせるんだから。
 お昼を知らせる6つの鐘が鳴り始めた。もう行かなくちゃいけない。逃げ回
ってるなんて思われるのはイヤだもの。
 私の大切だった人たちが待っているから。

 昼を告げる6つの鐘の音が鳴り響く。町の外れに目立たないように止まった
荷馬車を取り囲むように、みんなが待っていた。

「ごめんね、本当にごめんね……許しておくれ、お母さんを許しておくれ」
お母さん、もうしょうがないのよ。お願いだから、もう謝らないで。
「すまんな、ワシは何もしれやれん。ただ、いい人に会えるといいな……」
うん、ありがとうトム爺。あの街にはいい人もいるんでしょ。心配しないで。
「元気でね、私のこと忘れないでね」
忘れるわけないじゃない。ミラは私の一番の友達だもの。
「その、なんだ……元気、でな……」
うん。ノトは、その間の抜けた喋り方は直した方がいいわ。それからおババ、
目が見えないのに来てくれてありがとう。
「最後にもう一度会っておきたくてね。お前のその瞳が、お前に幸せをもたら
 してくれると、おババはずっと祈ってるよ」
うん、ありがとう。

 別れを惜しむ暇もなく、その時間はやってきた。私は太った商人に急かさ
れて、荷馬車に乗り込んだ。では確かに、と言って商人が小さな重い袋をお母
さんの手に握らせて、私はこの町の人間ではなくなった。

 でこぼこの道を、荷馬車がゴトゴトと走り出した。
「ごめんね、許しておくれ……」
お母さんのすすり泣く声が聞えてくる。もう恨んではいないけど、優しい気持
ちにもなれない。ただ、出発したら絶対に振り返らないと決めていた。
 ミラやノトの声を遮って、一際大きな泣き声が聞えてきた。
「やだっ、いやだっ、お姉ちゃ〜ん、行かないでっ!」
ルークの泣き声は、私の胸に響く。ルーク、泣かないで。お願いだから泣かな
いで。ルークが泣くと、胸の底から涙が溢れそうになる。
「お姉ちゃ〜んっ……」
ごめんね、ごめんねルーク。これできっとお別れだと思う。でも、お願い。お
願いだから泣かないで。私は泣かないって決めたの。絶対に泣かないって決め
たんだから。

 両手で耳を塞いで、唇をかみ締めて、じっと耐えていた。町を遠く離れてし
まっても、ルークの泣き声はいつまでも私の耳に残っていた。
 これから私はあの街へ運ばれて、誰かのために生きることを強いられる。も
う帰ることもできないと思う。
 でもいつか、そんなとこからは逃げ出してやる。自分の手で自分の人生を取
り戻してみせる。だから、だからそれまでは……。



  そして蒼い瞳の少女は、黒い髪の少年と出会った  




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